アーティストとして生きた〜西行法師


NHK大河ドラマ「清盛」をたまたま見たときのこと、 平清盛と親友の、佐藤義清(のりきよ)が、出家しちゃうシーンだった。

佐藤義清(のりきよ)さんてのは、のちの有名な、西行法師のこと。

私たちに馴染みあるところでは、百人一首にも載ってような優れた歌人でもあり、後世の歌人や作家などにも多くの影響を与えた人だ。

ドラマの中で、藤木直人クンが演じていたように、文武両道に優れ、家柄もいいし、おまけにハンサム・・・

祖先が藤原鎌足(日本史ではおなじみの人でした。)という裕福な武士の家系に生まれ、名誉ある「北面の武士」(一般の武士と違って官位がある)に選ばれてた。

当時の北面の武士ってのは、超エリート集団で、しかもルックスも良くなきゃ入れなかったそうだ。

流鏑馬(やぶさめ)をやれば一番だし、蹴鞠の名手でもある。和歌も素晴らしい・・・そりゃ、もう、親の威光で北面の武士になれた清盛さんとは、大違いなのだ。

なのに、まだ、23歳の若さでさっさと出家しちゃう。 この当時の「出家」ってのは、単に、仏門に入ってお坊さんを目指すってて意味だけではない。





この世に嫌気がさして、ドロップアウトしてしまった場合もあるっだろうし、現代でいうような、うつ病状態で、人キライになって隠れ住むって事もあっただろうし、 また、政治的意図で、無理やり子供の頃に寺に入れられちゃう場合もある。(源義経のように。)
とにかく、現実社会で立身出世を狙う道からはずれた生き方をする場合は、ほとんどが「出家」 スピリチュアルな生き方を極めようとすれば、そりゃもう、出家するしかなかっただろう。

佐藤義清(のりきよ)さんが、なんで出家する決心をしたのかは、 高貴なお方、待賢門院(たいけんもんいん)さんとの恋に破れたせいだとか、親しい友人の死が原因だったとか、皇位継承に関わるゴタゴタなど政治腐敗にうんざりしたとか、文献によってさまざまだ。
もっとも、本当の理由なんて、本人以外わかるはずもないんだけどね。
だけど、とにかく出家しちゃう。
そして、彼は、出家に際して歌を詠んだ。


世を捨つる人はまことに捨つるかは 捨てぬ人をぞ捨つるとはいふ

(出家する人は、人生に悟りや道をを求めるためであり、それは本当に世を捨てたとは言えない。出家しない人こそ自分を捨てているのだ)

おお!かっこいいなあ。
それに、どう見ても、彼は、ただドロップアウトして隠遁生活をしたくなったとは思えない。 とても前向きで、真摯な生き方を感じさせる。 ちょっとは、負け惜しみも入ってたかもしれないけど・・それでも、こんな事を言えるのは、並々ならぬ才気の塊でもあったんだね。

同じく、若くして、裕福な生まれながら、地位も名誉も妻子も捨てて出家した人といえば、釈迦も、,全く
同じ。
ただ、釈迦と違う点は、西行は歌を通して人生をみつめた人、アーティストと自分自身のスピリチュアルな生き方を目指した人と言えるだろう。

ドラマの中では、彼の人生のテーマは「美」を求めること、となっていた。
究極の美は、自然や心の中、そして、宗教観にも深くリンクしているもの。
また、美とは、ナチュラルな真の姿の、ポジティブな部分の結晶かもしれないね。
時の内大臣・藤原頼長(ドラマの中では山本耕史クンが演じてる)は、日記に、
「西行は家が富み年も若いのに、何不自由ない生活を捨て仏道に入り遁世したという。人々はこの志を嘆美しあった」 と記している。

また、西行が最初に出家した寺は、延暦寺など大寺院などではなく、どの特定の宗派にも属さない、鞍馬の方にある寺だったようだ。
(そういえば、平清盛によって、義経は幼少の頃に、鞍馬寺に送られている。本当だったら、源氏の子として殺害してしまうはずだったのに、情けをかけて、そこで仏門に入るようにと、入門させた寺だった。
鞍馬寺は、
牛若丸(義経)と天狗伝説>で有名な寺。
西行が、一番最初に入ったのが、そこの寺だったかは不明だが、もちろん、鞍馬寺も訪れている。
また、ずーーと後に老人になってから、奥州、藤原氏の館で、義経と会うことになるのだが・・・西行法師と義経、最初は鞍馬から出発・・というのも、何か運命的なものを感じさせる二人かもしれない。

まず、西行は、京都北麓の鞍馬の地の小さな寺から出発し、地位や名声も求めず、しばらくは、ただ山里の庵で自己と向き合うだけの生活をはじめた。
その後、各地を旅して歩き、人生を旅と歌に費やした人だ。
その旅の1つに、30才の頃、藤原秀衡(ひでひら)を訪ねて、奥州平泉に、最初の旅をしている。
西行は、藤原秀郷の第九代目の子孫にあたり、奥州藤原氏とは、遠い親戚にあたるのだ。
親戚のよしみで、おそらく若年の頃に、秀衡とは、京でも面識のあったことだろう。その関係上、旅のひとつに、奥州藤原家を訪れることにしたのだろう。

秋に、白河の関を超え、そして、10月には平泉の都に着く

白河の関屋を月のもる影は人の心をとむるなりけり
(白河の関屋をもれてくる月の光は、なんと人の心を止めてしまうのだろう)
とりわけて 心もしみて さえぞわたる 衣河みに きたるけふしも
(何と心に沁みてくるのだろ。何と心が冴え冴えとしてくるのだろう。今日まさに衣川を私は見たのだ)

衣川は北上川支流の一級河川で、この季節、さぞ、冷たい雨に霞む山河の光景が広がっていたことだろう。

彼は、行く先々で歌を残していく。
多くの歌を残し、和歌を通して悟りに至ろうとしていたのかもしれない。
いずれにしても、全く当時の常識とは異なっていた人なのだ。
おまけに、彼の作る歌は、当時では「異色」とされ、実に独創的な作品と見られていたようだ。

「俗語や歌語ならざる語を歌の中に取り入れるなどの自由な詠み口もその特色で、当時の俗謡や小唄の影響を受けているのではないかという説もある。
平俗にして気品すこぶる高く、閑寂にして艶っぽい歌風。 後鳥羽院は、西行をことさら好んだ。」という事が書かれている。(wikipediaより)

当時の貴族階級や僧侶の歌と比べると、あまりにも、正直。心のままに詠んでいる。 心のままに、寂しさや恋しさ、情けない思い、感動した思いまでも、歌に表している。
それに、西行さんは、桜の花、月、雪などを題材に詠んだ歌が多いのも特徴。
もともと、ロマンチックな思いを秘めてる人だったんでしょうなあ。
同時代の藤原定家らの歌と比べると、彼らは実に、技巧的で見事な歌ともいえる一方、西行の歌は、あくまでも素朴な口調で心境を吐露しているカンジ。内面の孤独や寂しさを飾らずに詠んでいるし、自然や人生をまっすぐにみつめ、どこまでも自然体。
それでいて、音や、語呂の良さ、イメージを彷彿とさせてくるのがすごいところ。



ところで・・・TVドラマの中で、待賢門院にお仕えしていた女房(女官)の堀河さんが、こんな和歌を詠んでましたね。

長からむ 心も知らず わが袖の 濡れてぞ 今朝は物をこそ思へ

そこに、まだ出家前の、佐藤義清(のりきよ)さんが、ちょっとアドバイスしてあげてた。



長からむ 心も知らず 黒髪の みだれて今朝は ものをこそ思へ

で、こんな歌に変わったんだけど、現にこの歌は、百人一種にも、堀河さんの歌として載ってます。
ほんとに、出家前の義清さんが直してあげた歌だったかは疑問だけど・・・たしかに、ぐっと良くなってるのは確か。

長い、黒髪、乱れる、と、ポイントが1つに絞られてすっきりするし、詠んだ時の音もイイカンジ。
たしかに、袖が、黒髪に変わったとたんに、切ないまでの色っぽさを感じるようになってる!

ちなみに、いちおう、説明するとですね〜、
これは一夜を共にしたあと、女性の黒髪が寝乱れていて、それをとかしながら、
「これは、一夜限りの事なんだろうか?それとも、本当の愛?いや、それとも・・」と、悶々と昨夜の余韻に浸りながらも、どこかで不安を感じる思い。
恍惚と不安と恋の甘さ、苦さなどなど、心の機微を見事に表した歌ってわけです。
もちろん、長い⇒黒髪⇒乱れは、黒髪の乱れと心の乱れをかけた、掛詞ですね。

たったこれだけで、昨夜の出来事を彷彿とさせるようなセクシーな情景も思い浮かべるわけで、それでいて、お下品にはならず、情感がこめられている。詠んだ時の音もきれい。

たしかに、西行さんの手法に近いものを感じるかも。

さて、奥州にいた頃、ようやく、春になって、秀衡さんに案内されて出かけた時のこと。
「ほれ見ろ! 西行、ここを見ろ!桜は、吉野ばっかりじゃないぞ!ここにだって、見事な桜の山があるんだぞ!」と言われて、 あまりの見事な桜にびっくりして詠んだ歌。

きゝもせず たわしね山の 櫻花 吉野のほかに かゝるべしとは
(いやこんな素晴らしい櫻の名所があるなんて!吉野の以外にこんな櫻の名所があろうとは!束稲山(たわしねやま)は今日から歌枕にもなるだろう。)

奥州の旅から戻ったあと、西行は、真言霊場・高野山に入って庵を結ぶ。
その後、保元の乱が起こり、それによって、讃岐に配流され、無念を叫びながら死に、大怨霊となった崇徳上皇(西行がフラレた中宮の子)の鎮魂と空海の聖地探訪の為に四国を巡礼した。

さらに高野山で修行したのち、伊勢二見浦に行く。

この頃、源平の乱が勃発、各地で戦の炎が包み込む。
とうとう平家の都落ち。彼は、さまざまな浮世の移り変わりを目にしてきたことだろう。



そして、源平動乱の中で、東大寺は大仏殿以下ことごとく焼失してしまった。

そんな折、1186年、西行が68歳のときだった。(さすがに、この当時では、ものすごいお爺ちゃんになってたことだろう。)
東大寺を復興するので、高僧・重源(ちょうげん)さんが、西行を訪ね、「大仏に金を塗るための砂金を早く送るように、奥州の藤原氏に伝えて欲しい」と頼まれる。すでに、話はついてるんだけど、まだ、送ってこないんだよ〜って、事だった。

そこで、西行は、いまだ存命の、奥州の藤原秀郷に会いに行くことになる。2度目の奥州行きだ!
おそらく最後の長旅になることを意識していたことだろう。

しかし、なんで、この年で、危険を冒してまで行く気になったんだろう?(この当時は、すべて歩きだからね〜、危険きわまりない。命がけなのだよ。)
「重源さんが、砂金早く送ってちょーだい、東大寺の大仏、早く修理したいって言ってるよ。よろしくね!」って、手紙にすればよかったのに〜。

さてさて・・・ここで、ちょっと、この当時の社会情勢、勢力図を見てみよう。
まず、帝のいる京都(後白河法王、なかなかのやり手、狸おやじだった。)、源頼朝の治める鎌倉、そして、北の王国、平泉・・・この3つに分かれていて、
「京都―鎌倉―平泉」という勢力関係が自然に出来上がっていたのだ。
北の国の奥州、藤原秀衡さんは、政治家手腕も見事な人で大人物。おまけに裕福な国で、なかなか、新勢力の頼朝さんでさえ、手を出せなかった。

ところが、藤原秀衡さんは、西行さんと同年代、さすがに寄る年波、おまけに、跡を継ぐ息子は、ボンクラばかりで、完全に国を任せられるものはいない。
当然、野心家の頼朝は、隙あらば奥州を狙っていて、年を取った秀衡は、ぽっくり行くのに、そう長くはかからないだろう・・と思っていたに違いない。
そのときこそ、攻めるチャンス到来・・・奥州も自分のものにできる!。 ふっふっふ。。。

わざわざ、西行さんが危険を冒してまで出かける気になったのは、友である藤原秀衡を心配し、また、若い頃にお訪れた美しい奥州が戦火にまみれるのが忍びなかったからじゃないだろうか?
出家した人が、浮世の事に関わらないのとは違い、西行さんは、あまりにも、あまりにも人間的な情を秘めていたのではないだろうか?
出発に際して、こんな歌を詠んでいる。

年たけて またこゆべしと 思いきや 命なりけり 佐夜の中山
(年を取ったけど、この佐夜の中山を越えて、再び奥州へ行こうとしている私だ。ああそれもこれもこの命が保ってくれてのことなのだ。)

とにかく、彼は一大決心をして最後の長旅に出発し、途中、鎌倉を通る。そこで、なんと、頼朝と会うことになってしまったのだ。
その事情は「吾妻鏡」という書物に書かれている。

頼朝は、相手が有名な西行と知って、流鏑馬と、歌の道について話を聞きたがった。
西行は、はじめ、「歌なんて、心の感じるまでに、31語にするだけのものですよ〜。」と、のらりくらりと答えていたようだが、あまりにも、頼朝が熱心なので、流鏑馬については、遅くまで話に付き合って、マジメに答えてあげたらしい。
それが、後に、鎌倉で毎年行われる流鏑馬になったとか。

おそらく、この会合は、ただの流鏑馬談義だけじゃなくって、お互いに会って、人物を確かめようという意図もあったんじゃないだろうか?
頼朝さんは、西行が親戚筋の藤原秀衡に会いに行く途中って事を知ってたわけだし、奥州狙いの頼朝さんとしては、ぜがひでも情報を知りたいわけだし、西行さんとしても、友人の敵である頼朝の人物を見ておきたいのは同じだろうからね。 いわば、敵同士だもんね〜。

翌日、引き止められたにも関わらず、西行さんは出発する。
そのとき、頼朝は、「私は、東大寺寄進に金までは出せないけど、せめて、お土産に、銀の猫を!」
と、言って、銀で出来た猫を、おみやげとして、西行さんにあげたようだ。

なんで、銀の猫??
ところが、西行さん、鎌倉の通りで遊んでた子供に、「ほれ、これで遊びなされ!」って、さっさとあげちゃったらしい。

つまり・・・西行さんは、頼朝は、やはり気に入らない、価値観が違う人・・・という結論に達してたんだろうね。
ひょっとしたら、超〜イヤなヤツと思ったのかもしれない。
でも、頼朝は、なんで銀の猫をお土産にしたんだろ?・・・それを西行が持って奥州へ行くことを想定して、奥州・藤原氏へのメッセージだったんだろうか?
「この猫のように、おとなしくしてろよ!」とでも言う・・・。

その後、長旅を経て、西行は無事、平泉に到着する。
そこで、どのように、友の秀衡に助言したのかは、わからない。どのように、頼朝について伝えたかもわからない。

そこには、すでに、頼朝に追われて苦難の旅をしながら、逃げてきた義経も滞在していたはず。
義経にとって秀衡は、父のような存在であり、大恩ある人だった。

きっと3人で、何らかの話をしたことだろう。

東大寺の大仏修復の砂金は、西行が到着すると、秀衡は、西行の顔をたてて、すぐに送ってあげたようだ。
そして、しばらく滞在したのち、西行は、奥州を後にすることになる。

きっと、これが、最後の見納めと感じてたんじゃないだろうか?
秀衡と会うのも最後、そして、この美しい奥州の景色も、戦火にまみれることを予感していたんじゃないだろうか?
西行は、どんな思いで、奥州を後にしたんだろう?

西行が奥州を去った半年後、秀衡は、突然病に倒れる。
死に望んで、息子たちに遺言を残す。
「義経公を中心にして、平泉がひとつになり、鎌倉の源頼朝の攻撃に備えよ。奴らが白河の関を越えた時は戦え。」と。

秀衡は、わかっていたんだと思う。
長年、戦火にまみれたことの無い平泉、平和ぼけしちゃった平泉を守ってくれる武将は、義経しかいないって事を。
少数精鋭で、大群の平家にも勝利したほどの軍略の天才、義経。彼の指揮のもと団結しない限り、もはや、頼朝には勝てないことを。
同時に、頼朝の目的は、必ずや藤原を滅ぼして平泉を手に入れるだろうことも。

しかし、結局、秀衡の遺言は守られなかった。
その後、平泉は、アホ息子の基成と孫の泰衡に握られ、頼朝の脅迫まがいの、「義経の首を渡さなきゃ、大群で攻め落とすぞ!」 という圧力に負けて、言いなりになり、最後の切り札だったはずの義経を、郎党五百名で取り囲んで滅ぼしてしまったのだ。

そして結局・・・秀衡の読みどおりに、頼朝は、義経の首を受け取った後でさえ、インネンをつけて攻めてきたのだ。
うーーむ、確かに、汚い手を使うヤツだ!
戦争慣れしてない奥州、藤原氏、おまけに、父ちゃんが死んで兄弟バラバラ、アホ息子が城主で、いまやお家騒動状態では、勝てるはずもない。
おまけに、切り札の義経は殺しちゃった後だし・・・こうして、栄華を誇った奥州藤原氏は、4代目にして、あっけなく滅びてしまったのだ。

西行は、平泉の悲劇の運命について、どんな思いで、その報を聞いたんだろう。
悲しい知らせを聞いた西行は河内の国の弘川寺にて、1190年、自分で詠んだ、歌のごとく、ひっそりと息をひきとった。

願わくば花の下にて春死なむその如月の望月の頃
満開の美しい桜と死をイメージさせるこの歌は、坂口安吾の小説、「桜の森の満開の下」を、ふと思い出させる。
この小説が、西行さんの影響を受けていたかはわからないけど、後の多くのアーティストたち、歌人、茶人、国学者、俳人たちに影響を及ぼしたことは確かなこと。。
特に、松尾芭蕉は、西行に憧れて、人生を旅に費やした人だった。



さて・・・最後に、桜と紅葉の歌を紹介。

花に染む心のいかで残りけん 捨て果ててきと思ふわが身に
注:吉野には。10万本の桜がある。
あたり一面の美しい桜色に、まるで心まで染められてしまうようだ。この世への執着は捨てたはずなのに、なぜこんなにも桜の花に心奪われてしまうのだろう。なんで、自分にまだ、そんな感情が残っているんだろう?

心をば深き紅葉の色にそめて別れゆくや散るになるらむ
(私の心を深紅の紅葉の色に染めて別れましょう。散るとはそういうことでしょう。)
なんか、滅びと美意識の極地みたいで、ちょっと、「ベニスに死す」的美意識とリンクしませんか?

吉野山こぞのしをりの道かへてまだ見ぬかたの花を尋ねむ
(去年枝折(しおり)をして目印をつけておいた道とは道を変えて、今年は、まだ見ない方面の花をたずね入ろう、探しだしいものだ。)
決して諦めずに、人に行かない新しい道を行けば、新たな発見があるのだ、道が開けるのだ・・・と言われてるみたいな歌で、個人的に好きな歌。
ほんとは、ただ、道を変えて行ってみようか!って思っただけだったのか、もっと別な意味がこめられてるのかは知らないが。

まあ、歌にしても、詩にしても、作者の手を離れて人に愛される作品となったときから、さまざまな解釈は生まれるもの。
さまざまな形で人に感動を与えるもの。
作者が感じた以上の解釈が生まれることがあっても、それはそれ!
もしかしたら、作者自身が、深層心理の中で、それを感じてたってこともあるだろうし、それを味わう人、すべてのものとなるのが、優れたアート作品なのかもしれない。
優れた作品は、作者の手を離れて一人歩きを始めるものかもしれない。

遠い遠い昔、鎌倉時代初期の人でありながら、とっても人間的で、スピリチュアルな生き方をしながら、優れた作品を生み続けた人、西行法師のお話でした。。。

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